2023年主日礼拝説教放送

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2024年4月21日主日礼拝説教】

イエス様と弟子たちがピリポ・カイサリアの地方に行かれたときのことです。イエス様は弟子たちに、人々は人の子をだれだと言っているのかとお尋ねになりました。人たちはイエス様を、バプテスマのヨハネだとか、エリヤだとか、エレミヤ、あるいは預言者の一人だと言っていると答えました。イエス様は彼らに、あなたがたは、わたしをだれだと言いますかとお尋ねになりました。すると、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えました。これに対して、イエス様は「あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」と言われました。


【2024年4月14日主日礼拝説教】

今日の聖書箇所には、イエス様が湖の上を歩かれたこと、ペテロが湖の上を少し歩いて溺れたこと、それに対するイエス様のみことばが出てきます。23節。「イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた」とあります。他の福音書の箇所にもイエス様の祈りの様子が書かれています。マルコ135646;ルカ5166129181112240〜41。イエス様は祈るためによく山(さびしいところ)に行かれました。弟子たちに祈りの模範を示すためであり、何よりご自身のためでした。イエス様のお働きの源泉は祈りだったのです。


2024年4月7日主日礼拝説教】

イエス様が行われたしるしの中で、四つの福音書全部に書かれているものは、この「五つのパンと二匹の魚の出来事」だけです。ヨハネ66によると、「ピリポを試すだめであり」とあります。主は弟子たちの信仰を試されたのです。彼らの持ち物は乏しいです。あったとしても五つのパンと二匹の魚しかありません。さらにピリポは群衆が食べるには二百デナリのパンでは足らないと言います。しかし、主は弟子たちがそのような乏しい状況の中でも、手にある持ち物を見つめるのではなく、主を見上げ、信頼することを求められたのです。絶望の中でも主を信頼する信仰が求められます。


【2024年3月31日主日礼拝説教】

復活は信仰によって信じるものです。安息日が終わって週の初めの日にマリアたちはイエスの墓を見に行きました。そこに主の使いが現れ、イエスはよみがえられたと告げてくれました。イエス様の誕生の時にも、復活の時にも御使いが現れます。イエス様は神様であり、その誕生も復活もすべて神様が初めから定められた御わざだからです。聖霊によっておとめがみごもったことも、そこから赤ちゃんが生まれたことも、神様によって死なれたイエスがよみがえられたことも、誕生も復活も、人の頭では理解できないことです。


2024年3月24日主日礼拝説教】

今日は、イエス様の十字架は何のためなのか?それからだれのためなのか?」について、みことばの恵みを一緒に受けたいと思います。キリストの十字架は、神の愛を示すためです。

ヨハネの福音書316に書かれているとおり、神様は、実に、イエス様を十字架の死にお与えになったほどに私たちを愛されました。なお今も愛しておられます。それは御子なるイエス様を信じる人が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。十字架はもはや罰のシンボルではなく、神の愛のシンボルなのです。


【2024年3月17日主日礼拝説教】

ヨハネの福音書第3章には、イエス様とニコデモの会話を通して、「神の国」について書かれています。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」「新しく生まれなければ」とは、「上から、もう一度」という意味があります。「上」とは神様ご自身を指します。「人は、神様によって、新しい被造物として、もう一度生まれなければ、神の国を見ることはできない」という意味です。簡単に言うと、神の国だから、神様によらなければ見ることはできない、という意味です。


2024年3月10日主日礼拝説教】

天の御国は隠されているものである。しかし探す人は見つけることができる。「探す」とは「求める」という意味である。求める人が見つけることができるように、神さまが導いてくださるのです。そして、その前に求める心を神様が起こしてくださるのです。ですから、天の御国を求めること、見つけることも神様のお働きによる恵みなのです。


【2024年3月3日主日礼拝説教】

イエス様は群衆に向けて、「種を蒔く人のたとえ」で話されました。このたとえの焦点は種が蒔かれた「地」であって、「みことばを聞いて悟る」ことの大事さを話されたたとえです。みことばは同じです。問題は聞いて悟るか悟らないかです。聞くだけでは不十分です。サタンや思い煩いや誘惑や困難のゆえに悟らないみことばは奪われてしまうからです。だからみことばを聞いて悟らないといけないということです。

 


2024年2月25日主日礼拝説教】

イエス様のお話は、実は、パリサイ人たちに向かって話されたものです。先週、学んだように、パリサイ人たちは口先では良いことを話します。律法を教えるし、それを解いて話します。また律法や神のことばに対する知識も優れています。しかし、言うことと行うことが違ったのです。みことばの知識を持っているのは良いことですが、彼らに知識はあるが、信仰と行いがなかったのです。イエス様はそんな彼らを「偽善者だ」とも言われました(マタイ2313)。

 


【2024年2月18日主日礼拝説教】

今日の内容は安息日に対する論争です。当時のパリサイ人たちは安息日の律法を文字通りに守ろうとしました。それで、イエス様の弟子たちが、麦畑を通る時、空腹だったので、穂を摘んで食べました。それを見たパリサイ人たちはイエス様と弟子たちを非難しました。安息日にしてはならないことをしたということです。これに対して、イエス様は安息日を含めて、律法全体に対して最も大事なことを話されました。8節。イエス様はイエス様は宮より大いなる方であり、安息日の主であるということです。


2024年2月11日主日礼拝説教】

エス様は私たちの体もたましいも大事にしてくださいます。からだは悪だ、たましいは善だという二分化する考え方を持っておられません。主は私たちのからだもたましいも造られたものだからです。主は私たちのからだもたましいも健やかであることを願っておられ、守ってくださるのです。私たちのからだは神様がおられる神殿である聖書は私たちのからだは神の宮だと言います。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり」(第一コリント619)。

 


【2024年2月4日主日礼拝説教】

前回の説教で、「救われた私たちはみんなイエスの弟子だ」と申しました。では、弟子の歩みはどんなものなのかについて、聖書から教えていただきたいです。105節からの内容は、弟子たちの派遣式が描かれています。その時、弟子たちに言われたイエス様のおことばに注目したいです。その内容全てを文字とおり、今の時代に適用しなければならないわけではありませんが、弟子の歩みを表す大事なみことばが出てきます。


2024年1月28日主日礼拝説教】

マタイの福音書第10章に入ると、イエス様の12弟子たちの名前が出てきます。まず、ペテロのアンデレです。この二人は兄弟です。またゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネがいます。彼らはみんな漁師です。イスラエル人の生活に関する記録があまり残っていませんが、学者たちによると、おそらく彼らの生活水準は裕福ではなかっただろうと言われています。ところが、この中で、ペテロはペテロの手紙を書くことができるくらいの知識を持っていたことがわかります。


【2024年1月21日主日礼拝説教】

イエス様は船に乗って、自分の町、すなわちカペナウムに帰って来られました。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来ました。そこで、イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われました。すると、彼は起き上がり、家に帰りました。この出来事から教えられることをお話ししましょう。


【2024年1月14日主日礼拝説教】

マタイの福音書第8章には、六つの出来事が書かれています。病人の癒し、悪霊を追い払った事、嵐をしずめた事などです。これらの出来事は私たち人間の常識から見れば、奇跡です。しかし、全能者の神なるイエス様にとっては不可解な奇跡ではなく、単なる出来事に過ぎません。これらの出来事は私たちの信仰を強めることにも役立つものです。けれどもこの記事が書かれた最も大事な理由があります。それは、イエス様がまことの神であることを示すためです。当時の大多数の人たちにとって、イエスという存在は、預言者のような人として見られました(マタイ16:13~14)。


【2024年1月7日主日礼拝説教】

家族の救いがなぜ必要なのでしょうか。それを、神様の視点から見てみたいと思います。神の救いは、人が救われて天国に行くだけの単純なこと以上のものです。神さまが創造された被造物すべてが罪のゆえに堕落してしまいました。神様はそれを回復されます。その回復(救い)の計画は徐々に成し遂げられてきました。そして、やがて、イエスさまの再臨によって、すべてが回復される救いのわざが完成されます。それによって新しい天と新しい地が始まり、救われた神の民はそこで永遠に神さまを礼拝するようになります。